自分に触れる時間
- spielen0622
- 3月30日
- 読了時間: 3分
こんにちは。
常識不要、素のままダイアログ
心理セラピストのエリナです。

月に一度、お世話になっているお寺へ座禅に通っています。
山のふもとにある禅堂は、凛とした空気に包まれていて、心身が落ち着きます。とくにこの季節は、寒さも和らいできて心地よく座れる時期です。
都内だけど、山に囲まれていることもあり、普段よりもゆっくりとした時間が流れているようです。
坐禅では、30分ほど座した後に、白隠禅師座禅和讃をお唱えします。
‥‥
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生のほかに仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり
‥‥
この和讃では、私たちは元々仏であると説かれています。
私たちの中に仏さまがいるんだよってことです。
水を離れて氷がないように、生きとし生けるもの私たちのほかに仏はない
私たちはそれに気づいていなくて、つい遠くにあると求めてしまう、はかないことだ
たとえば水のなかにいて、喉が渇いたと叫んでいるように。
日常生活では、仕事や予定をこなすために、常に今の感情を大切にしたり、率直に表現することは難しく、私たちは自分自身を操縦してその場に適応させます。
お寺にくると、時間の流れが緩やかに感じるのは、今ここの現実に、意識を向けられたり、その時の感情や感覚を味わっているからですね。
ふと自分を顧みたり、外部へ応えず、誰でもない自分としていられる時間って
よほど意識的にならないと難しい現代社会。
私たちの中にもともと仏さまがおられたとしても、それに意識を向ける時間を取れなかったり、向け方もわからなかったり、そのことも知らなかったりすれば、気づけません。
ゲシュタルトセラピーでは、ワークの中で、元々あったもの、持っていたものに気づくことがあります。
何か新たなものを得るのではなく、セラピーの中の「今、ここ」の経験からそれに気づく、既にあるものことに気づくと、その事実を受け入れられるようになることがあります。
その結果、これまでとは異なる視点で世界を感じられます。
気づくことで、結果的に変化は起こります。
意図的に起こすのではなく、自然と生じます。
忙しいときほどこそ、感覚や感情に意識を向ける時間を持ちたいですね。
誰かと共有できると、それは温泉に浸かるような、自分を手当する時間にもなります。
そうすると、ゆとりが生まれます。
ゆとり、余白、ないと、見えてるものにも気づかなくなってしまうこともありますね。
今朝は日曜ということもあり、寝坊して午前中バタバタしていたので、ふとそんなことが浮かびました。





