生かされている、という感触にふれて
- spielen0622
- 4月14日
- 読了時間: 4分
更新日:4月15日
“ねばならない”を揺るがせて、素の自分に出会う場所。
心理セラピスト・エリナのブログへようこそ。
お立ち寄りいただき、ありがとうございます。
座禅でお世話になっているお寺の隣には、きれいな川が流れています。
季節によっては、蛍がふわっと飛ぶくらい澄んでいる水です。
毎回、いつも早めに到着して、このあたりでゆっくりするのが楽しみの一つ。
自生しているクレソンをつまんだり、せせらぎに耳をすませてみたり。
こないだは久しぶりに足をつけてみました。
春のぬくもりを感じるような柔らかな水温。
それでもシャキッと目が覚める冷たさです。
そして、なんだかすごく久しぶりに、アメンボを見かけた気がします。
スイスイ動くリズムと水の音が心地よく、つい見入ってしまいました。


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ゲシュタルト療法を継続していて、よかったなぁとふと思うことがあります。
それは、いわゆる「生きづらさ」が和らいでいく、その先に、
「生かされている」という感触を、体感するようになったこと。
セッションでは毎回、そのとき気になることをテーマに扱っていきます。
頭から離れない悩みや考えごと、体の不調、人間関係のもつれ、
あるいは理由のよくわからないざわつき。
ときには、「なんとなく今はこれ」としか言えないような感覚も。
逆に、「何も浮かばない」ことさえも、ただそのまま受け取ることができます。
扱うテーマはその都度ちがっていても、
その奥には、ふだん意識にのぼらない自分自身の深い層があります。
そこに触れることは、ときに怖くて、混乱して、感情があふれてくるような時間になることもあります。
日常の中ではどうにか抑えていたはずのものが、ふいにほどけて、目の前に現れてくる。
でも、それによってはじめて、
「今まで見過ごしていた何か」に目を向けることができる。

当たり前だと思っていた視点がすっと外れて、
見えていなかった世界が、実はずっとそこに広がっていたことに気づいたりもする。
それは、水の中に潜っていたときに、ふと顔を上げて空気を吸ったときのような、
ホッとする感触に似ています。
セッション後はどっと疲れることもありますが、
その後、これまで苦手だったことが、気にならなくなっていたりします。
「あれ?そういえば…」と、あとから気づくような変化。
そんな体験が面白くて、私はゲシュタルト療法のセッションを重ねてきました。

内側にある未完了の何かと静かに向き合いながら、
それへの執着が少しずつ薄れてきたあるとき、
ふと「生かされているなぁ」という言葉が浮かぶようになりました。
たとえば、朝、カーテンを開けて陽の光を浴びたとき。
頬をなでる風に清々しさを感じたとき。
寝起きに水を飲んで、喉や体が潤っていくのを実感したとき。
暗がりの中で、小さな灯りに安心したとき。
鳥の声、虫の声、人のぬくもり、乗り慣れた電車の揺れ、歴史の跡、あらゆる「いのち」の気配。
人、動植物、微生物、無生物。
過去や未来、思い出、他界した存在。
地面や海、風、光、地球、宇宙。

それらの何かが特別ということではなく、
自分という存在が、その大きな有機的な流れの一部であることを、静かに感じるようになっていきました。
すると、自分へのこだわりやためらいも、少しずつ薄れていった気がします。
道ばたで困っている人に声をかけたり、電車で自然と席を譲ったり。
何かを期待してというより、「ああ、今、動きたいな」と、体がふと動くような、
自分の中にある「やりたい」をそのままスッと出せる感覚。
他者との境界線は持ちながらも、
それが断絶ではなく、柔らかな布のように、どこかで繋がっているような感覚。
そんな感覚を、誰かと共有したいなと思っていたところ、
ここ数ヶ月で、ふとしたご縁や、心に残る本との出会いが続きました。
その巡り合わせに対しても、「生かされている」という言葉が浮かびます。
こうして書くと、もしかしたら少しスピリチュアル寄りすぎているように思われるかもしれません。
でも、私にとってこの感覚は、特別な何かを信じているというよりも、
「ありがとう」という自然な気持ちや、
目に見えるもの、見えないものも含めた存在への、敬意のように思います。
読んでくださって、ありがとうございました。
もしあなたが、今、ちょっと立ち止まりたくなったとき、
そっと自分の感覚に耳を澄ませてみてください。
そこには、思っていた以上にやさしくて豊かな世界が、すでにそこに在ります。



