過去と物語と、違和感について
- spielen0622
- 5月26日
- 読了時間: 3分
更新日:5月28日
ここは、自分に優しくなれる場所。
こんにちは、エリナです。
今日も気の向くままに〜✳︎︎*
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数年前に上映された、あるアニメ映画を観ました。前情報を入れずに、ただなんとなく。
物語は、女子高生の恋愛と冒険、そして日本を救うという壮大なストーリーで構成されており、背景には、ある震災がモチーフとして描かれていました。
主人公は、辛い過去を抱える少女。
ある不思議な青年との出会いをきっかけに、各地で起こる災害を封じていく展開の中で、自らの過去とも向き合っていきます。
ストーリーも映像も美しく綺麗な作品でした。
けれど観終えた後、なんとも言えない妙な違和感がまとわりつきました。
というのも、あの震災は、私にとってまだ「歴史上の出来事」とは割り切れない記憶の中にあります。
非被災者の私ですらそう感じるのだから、未だ癒えない傷を抱えている方もいると思います。
そうした方々がこの映画を観たら、どう感じるだろうか。
そんな思いが残りました。
鑑賞後に感想を検索してみると、
「感動した」「震災を描いてくれてよかった」といった肯定的な声もあれば、
私のように違和感や不快感を抱いた方の感想も見つかりました。
あの震災から、10年以上。
「十年ひと昔」と言われるように、震災をモチーフとした作品も、他にいくつか存在します。
けれど、それらの作品を観た時には、今回のような嫌悪感は感じませんでした。
その違いは、どこにあるのだろうと考えていた時、「感動ポルノ」という言葉が浮かびました。
この映画では、震災による辛い体験や深い悲しみが、「感動を呼ぶための材料」として扱われているように思います。
きれいに整ったストーリーや予定調和的な展開や、主人公だけに都合よく描かれた世界で、
全体的にリアリティが薄く、漠然と軽薄さを感じました。
また、ある登場人物が、使い捨てのように物語から退場していく描写があるのですが
そこに、鑑賞後に感じた違和感の根っこを感じます。
その登場人物を作品内でそのように扱うように、
物語の都合のために、被災者の方々の辛い体験や深い悲しみだけを切り取り、それを感動の材料として使っている印象を、映画全体から受けました。
そして、現実に今も生きている被災者の方々への敬意や配慮が、作品から、私にはあまり感じられませんでした。
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私たちは、誰かの苦しみや悲しみに触れた時、思わず涙を流すことがあります。
けれどそれは、本当に「共感」からくる涙なのでしょうか。
無意識のうちに、「誰かの人生」や「誰かの痛み」を、ただ感動のためだけに消費してしまってはいないでしょうか。
もし、自分自身や大切な人が「感動を生む素材」として扱われ、すぐ忘れられたら、どう感じるだろう。
この感想は、きっと製作側の意図とは異なるでしょうし、
こうした批判もある程度は想定内だと思います。
二度、三度と鑑賞を重ねてみると別の角度からの発見もあるかもしれません。
今、ここの私の感想として記したくなりました。



