「自己成長しなきゃ」を見つめてみよう
- spielen0622
- 4月10日
- 読了時間: 3分
更新日:4月13日
“ねばならない”を揺るがせて、素の自分に出会う場所。心理セラピスト・エリナのブログへようこそ。
お立ち寄りいただき、ありがとうございます。

最近、友人と一緒に関東三十六不動霊場を、のんびり巡っています。
この日は小雨が降る中、目赤不動尊へ。平日で雨模様ということもあってか、人影もまばら。静かで、しっとりとした時間が流れていました。

枝垂れ桜が雨に揺れて、その隣には鈴のようにうつむいて咲くハナカイドウ(かな?)。
本堂の佇まいと相まって、心がスン…と静かになるような感覚。
こういう時間、大事にしたいなって思います。

さて、話は少し変わって。
ゲシュタルト療法では、「自己成長」という言葉がときどき(割と頻繁に⁉)登場します。
けれど私にとってこの言葉は、いつも、少し引っかかるものでもありました。
「もっともっと優れた自分になろうぜ!」
そんな空気がどこかにあるような、ちょっとしたプレッシャーを感じる言葉。
別に誰かに強制されたわけではないけれど、自分の中にある「そうでなければ」みたいな無意識の圧力が、ちらほらと顔を出すのです。
たとえば、自分が目指したい職業に就くために、資格を取ったり経験を積んだり。
明確なゴールに向かって歩くそのプロセスは、まさに自己成長だと思うし、それはとても素晴らしいこと。
でも、そうではなく、なんとなく「成長しなきゃ」って焦っていたり、「もっと高めなきゃ」と空回っているような姿を見ると、なんだか胸がぎゅっとなることもあります。
成長って、そんなに急いだり焦らなくてはならないもの?常に、誰もが追われねばならぬもの…?って。
もしかすると、そういう焦りの背景には「今の自分では、まだ足りない」という思いが隠れているのかもしれません。
「もっと良くならなきゃ」「変わらなきゃ」「何かを得なきゃ」
でもそれって、今ここにいる自分に「ダメ」の烙印を押してしまっているようなものではないでしょうか。
私自身、ゲシュタルト療法のワークの中で、こう実感したことがあります。
変わろう、成長しよう、と意気込まなくても、目の前のことに誠実に向き合っていく中で、ある日ふと「気づけば、変わっていた」って瞬間があるのです。
努力して登った階段ではなく、ただ歩いてきた道を振り返ったとき、そこに見える変化。
それが、ゲシュタルトで言う「自己成長」の欠片だと感じています。
この“自然な変化”は、「今の自分」と出会うことから始まります。
ネガティブとされがちな感情──怒りや嫉妬、不安、憎しみ、劣等感。そういったものを「感じてはいけない」と押し込めたり無視したり排除するのではなく、
「ああ、私の中に今こういう感情があるんだな」と気づいて受け止める。
否定せずに、ただ“気づく”ということ。
そのシンプルな営みの中に、変化の種は宿っています。
「もっとこうなりたい」って頑張りすぎて、本当は疲れているのに気づかなかったり。
「なんでこんなにネガティブなんだろう」と自分を責めて、余計に辛くなっていたり。
でも、自分を否定しないでただ眺めていると、そのままの自分で、ちゃんと生きているんだって思える瞬間があるんです。
ゲシュタルト療法では、こう言います。
「変わろうとするのではなく、今のままのあなたに、まずは気づいてあげてください」
変化や成長は、“しよう”とするものじゃなく、“起こってくる”もの。
無理に変わらなくても大丈夫。
そのままのあなたと一緒にいてあげることから、本当の変化は始まります。
このブログが、そんな気づきの入り口になれたら嬉しいです。
読んでくださって、ありがとうございました。また、ゆるゆると書いていきます。



