それは、太陽のせい─不条理に照らされて
- spielen0622
- 4月15日
- 読了時間: 3分
更新日:4月16日
“ねばならない”を揺るがせて
素の自分に出会う場所。
心理セラピスト、エリナのブログへようこそ。
気の向くままに、ゆっくりお好きに~*

以前読み返したカミュの「異邦人」について、少し記したくなった。
「それは、太陽のせい。」
あらすじに記されたそのセリフが気になって、初めて手にしたのは中学生の頃。
当時は、主人公と周囲のズレがただ気になるばかりで、彼の感覚もよくわからず、不思議な余韻だけが残ったのを覚えている。
改めて読み返したとき、この物語が「不条理」を描いた作品であることをくっきりと感じた。
社会が異分子に向ける冷淡な視線。
人生の中に避けようもなく潜む理不尽さ。
主人公が選び取っていく静かな拒絶と終焉。
彼は、目の前の現実をそのまま受け止める。
だからこそ、彼にとって意味を持つのは、目の前にある具体的な事実であり、
抽象的な理念や観念は、大きな意味を持たない。
一見すると、無関心で厭世的な人物のようにも映る。
けれど、彼は彼なりのやり方で、他者との関わりを求めていた。
人生を享受しようとする青い炎が静かに、そして確かに存在している。
物語としては、偶然が重なってひとつの事件が起こり、
その背景にある「意味」を、社会が勝手に構築していく。
彼は「人を殺した」以上のものを押し付けられ、裁かれる。
読み手によっては悲劇かもしれないし、
あるいは、滑稽で皮肉な物語に映るかもしれない。
けれど私はそこに、自らの感覚を
曲げずに貫いた彼の生き様を見た。
終盤、神父との面会の場面。
彼は、最後まで自分の信じるところを通した。
その姿は名もなき登場人物たちよりも、はるかに誠実に映った。
不条理は不条理として、正面から受け止めることで
彼は生の手触りを取り戻し
世界とのつながりを実感していたように思う。
読み終えたあとに残ったのは、
深く染み入る感慨と
心にすっと溶け込む静けさだった。
どれほど道徳を説いても
見えない偉大な存在を掲げても、
現実の世界では、自然災害も人災も起こる。
少しずつ良くなっていくはず、と
希望を抱いていても、今日も海の向こうでは
戦争が繰り広げられている。
そうした不条理の中を、
そしていつか死を迎える
現実の世界を、私たちは生きている。
有限な人生をどう生きるか。
それは
「いつ」「何を」
選び取るかと、いうこと。
人生は、選択の連続。
今からお風呂に入る?
それともテレビを観る?
そんな日常のささやかな
選択から続いてる
以前、お世話になったある人が
こんなことを言っていた。
「これまで辛かったこと、
苦しかったこと。
したかったら、
親や環境のせいにしてもいい。
そう、
ぜんぶあなたを取り巻く環境のせい。
で、どうする?
これからどうする?」
目を背けず、それに向き合ったとき
引き取るリスクと引き換えに
自由が生まれる。
そこから、自分ならではの人生が始まる。



